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☆山岡鉄舟贈呈 清水次郎長佩刀 高砂浦五郎所持 備前國一文字則宗 大磨上無銘傑出太刀 凄まじい受け疵入 最高注目品☆

登録証
都道府県 香川県
発行年度 H21 
種別 たち
長さ 73.6cm
反り 2.3cm
目釘穴 3個
銘文 表:無銘
裏: 
備考
現在価格 -
入札総数 -
現在の権利者 -
残り時間 入札終了 (詳細な残り時間
終了予定時刻 2013-08-28 21:24:00.0
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出品者からのお知らせ
  特別重要刀剣合格「倫光」
伝兼光折紙付未鑑定品のご紹介
→保存特保同時合格「倫光」
→昨年重要合格→本年特重一回で合格です
  
3月度審査合格
「水心子正秀 天明二年二月日「」他

おめでとうございます。



  • オークションID:WA00019783
  • 出品者情報(fuji5005)
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    • 落札者負担
  • 出品者情報
    販売事業者 fuji5005 藤井
    住所 787-0332
    高知県 土佐清水市汐見町    
    代表者名 22-10 ・
    通信販売業務責任者 藤井 幸美
    電話番号 0880-82-3023
    Eメールアドレス [email protected]
※御品詳細※
詳しい説明文と御写真は後程掲載させて頂きます。


※申し訳御座いません落札手数料2.5%と送料のご負担をお願い致します(消費税請求無)
※私共出品の御品には全て刀袋が付属しています。刀剣所持者変更はがき同封致します※
※登録証は各都道府県で、鑑定書付きの場合は日刀保で出品前に照合確認済みです御安心下さい。
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~御知らせ~
○こちらのコーナーでは
刀剣類の換金目的委託代理出品を御手伝いさせて頂いております。
≪信頼と実績≫の当方に どうぞ御気軽にご相談下さいませ。≪誠心誠意で賜わります≫
委託販売・研磨諸工作等について詳しくは御電話かこちらまで御連絡の程宜しく御願い致します。
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●評価御入札が少ない場合や即決完売となった時 已む無く取下げさせて頂く事がありますので、
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●当方では優品名品美術品を多く扱いさせて頂いております。その他未鑑定現状品、居合・抜刀用、
研磨練習用、研究参考用等々 其々のニーズに対応出来る御品を同時に出品致しておりますので
お写真を良く御覧頂き、詳しい御方は御自身の御判断で、初心者様には当方所見状態説明を御参考に
して頂きまして 十分御検討の上、ご自身の御納得の責任ある御入札と御取引をお願い致します。

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※当方出品のオリジナル写真、説明文は無断転載.使用禁止となっています※
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【商品説明追記】
寸法 元幅:3cm 元重:7.7mm 先幅:1.89cm 先重:4.9mm





本作 備前國一文字則宗は、徳川慶喜公より山岡鉄舟が拝領し、長く指料とされていたものであり、
山岡鉄舟は下記資料の通り、徳川家茂 徳川慶喜に仕え、
幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に異常なほどの才能を現し、
文武に優れる天才は将軍の護衛役として重んじられ、徳川慶喜の命を救った真の立役者となっています。
本作はその山岡鉄舟の佩刀であったものを同郷の民官偉人であった清水次郎長に譲られ、
清水次郎長の剣術捌きは、六尺二寸(188cm)の大男であった北辰一刀流の達人山岡鉄舟より
手解きを受けたものと思われ、この類稀なる誉疵を受けた刀身は
数多の激戦を潜り抜けてきた太刀の中でも特に特筆であり、
持ち手は命を落とすことなく生きながらえた縁起の良い名刀として
先々代 高砂浦五郎に渡った御刀であることの伝来書きが残されています。
本作は鎌倉時代初期 後鳥羽院鍛冶 福岡一文字の初祖 則宗の宝物太刀であり、
文武両道の頂点を極めた英傑の指料としてこれ以上の指料は無く、
又、清水次郎長も武士では成しえない巷の災い揉め事の数多を収めた剣客として
清水次郎長一家に於いては 其々に優れた英傑が集い、
民の平安にも貢献が為され、清水次郎長は富士の裾野の開拓も自ら進んで貢献されたものとなっています。
頂点を極め、次郎長は刀から鍬を持つようになった際、江戸時代後期から明治にかけて活躍した
初代高砂浦五郎の指料として清水次郎長より与えられた太刀となっています。
鞘書きは昭和57年本阿弥宗景が江戸期御納戸役のしたため書きが施された鞘書きの
裏面に施されており、伝世を知る上での好資料となっています。
二尺四寸を有する持ち応え十分の太刀であり、太刀としての差裏ハバキ元 約11.5cm上に受け疵、
中間部分の棟に二か所、物打鎬部分に一処、差表の中間部分の鎬面に一処等の激戦の
誉れ疵がこれほどまでに深々と遺された現存品を見ることは初見となっています。
御当地の美術館に於いても、日本の英傑の二人と現代にも名門として存在とする
高砂部屋の初代高砂浦五郎の名跡も感慨深いこの上無き無二物宝物太刀となっています。



*清水次郎長の人物像
清水次郎長は、慶応4年(1868年)3月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。
同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、
修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した。
その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。
新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。
当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となって次郎長は明治において山岡・榎本と交際したとされる。
又、「藤田五郎」は、次郎長は山岡鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろうという言葉を残している。

*江戸無血開城について
慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。
江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち官軍の陣営に向かい
官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行したと言われ
駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼むが、西郷から5つの条件を提示される。
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
このうち最後の条件を鉄舟は拒み、西郷はこれは朝命であると凄んだ。
鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。
西郷はこの論理をもっともだとして認めた。これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれる。
3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。